✩《支倉常長(はせくらつねなが)‐公&遣欧使節団のダイナミックな足跡(そくせき=Huellas/ウエラ)》:
<支倉常長>は、1571年に桓武天皇を先祖に持つ山口常成‐家に生まれ(現‐山形県米沢市)後、叔父‐支倉時政の養子となる。初名は六右衛門長経、幼名は與市。伊達藩の家臣となる。
1611年12月2日に起きた<慶長三陸大地震>(北海道を含む超巨大地震・大津波)の大災害‐被災を復興する為に、伊達藩主・伊達政宗(現‐大神)は西欧と交易する<遣欧使節団>を結成する。その責任者として支倉常長を立てる。
1613年10月28日に支倉常長‐遣欧使節団の帆船‐サン・フアン<バウティスタ号>が牡鹿半島‐月ノ裏(宮城県石巻市)を出港〜メキシコ‐アカプルコ着(3ヶ月後)〜<メキシコシティ>滞在〜スペイン艦隊のサン・ホセ号で大西洋岸ベラクルス州のデ・ウルアを出航〜キューバ<ハバナ港>〜スペイン南部‐デ・バラメーダ港着〜
1615年1月30日に首都<マドリード>でスペイン国王<フェリペ3世>に謁見(えっけん)する。常長は王立修道院の付属教会で洗礼を受けてフランシスコ派カトリック教徒となる(洗礼名=ドン・フィリッポ・フランシスコ)。マドリードを出発〜
10月25日に使節団‐ローマに到着〜常長&ソテロら<ローマ教皇・パウロ5世>に謁見、アジア人でただ一人のローマ貴族となる。ローマ市民権証書‐授与さる。
1617年1月7日‐ローマを出発(一連の外交‐交渉は日本でのキリスト教‐取り締まりの為に成功しなかった)〜スペイン‐セビリア〜サン・フアン<バウティスタ号>でアカプルコを出港〜
1618年8月10日‐フィリピン‐マニラ着、<常長>はバウティスタ号をマニラで売却して日本行きの便船で帰国するも、すでに江戸幕府は<キリスト教‐禁止令>(キリシタン禁制・禁令)を敷き、キリシタン弾圧が始まっていた。
1622年8月7日(帰国2年後)‐失意の内に<支倉常長>公‐逝去(せいきょ)。支倉家は一時的に、お家を断絶される。
○1624年8月25日マニラまで常長に同行していた<ソテロ>はマニラで別れてから、日本に密入国しようとして捕まり、長崎県大村で火刑となり殉教す……。