✻《里宮の刈田嶺神社の仕組み》:(追加文)
蔵王山頂の蔵王大権現は679年(天武天皇8年)に役行者(えんのぎょうじゃ)の叔父の願行(がんぎょう)が、奈良県吉野の金峰山(役行者が蔵王権現を感得して奉祭した)から勧請してお祭りしたと言われている。<権現>は権(かり)(仮)の姿で現れた日本独自の最強の混淆の神仏――仏道・修験道では釈迦・弥勒・千手観音の働きを合体し、神道では大己貴(オオナムチ)命・少彦名(スクナヒコナ)命・国常立(クニトコタチ)尊・日本武(ヤマトタケル)尊 ・金山毘古(カナヤマヒコ)命の各神を習合し(合わせ)て祀った。仏教・修験道では仏が日本の神となったとの本地垂迹(すいじゃく)説を称える。(宗教がすでに機械システム化している証左でもある)
蔵王の山岳信仰はその拠点として、山形県側は<蔵王山神社>=瀧山・酢川神社・熊野神社の三社一宮、宮城県側は里宮<刈田嶺神社>(旧蔵王権現社)=もとは願行寺(廃寺)であった。 *(ウイキペディアの参照文/後日整理)↓
*「往古より蔵王一帯の修験者を統括し、大刈田山(青麻山)東麓の「願行寺」が管理した。平安時代末期(12世紀末)には奥州藤原氏の庇護も受け、願行寺は繁栄し、子院四十八坊を形成するまでになった。奥州藤原氏が滅亡とともに衰退し、戦国時代には兵火による焼失も加わって、戦国時代末期には山之坊・宮本坊・嶽之坊の3坊にまで減少した。
後に、山之坊は廃れ、宮本坊は宮蓮蔵寺となり、嶽之坊は金峯山蔵王寺嶽之坊と号し、蔵王山参詣表口を統括した。御山詣りが流行した江戸後期以降は、多くの参詣者を山頂の蔵王大権現へと導く役を担った。雪深い蔵王山は冬の参詣ができないため、例年、十月八日から翌四月八日までは御神体を遠刈田の「蔵王大権現御旅宮(おかりのみや)」に遷すようになった。この御旅宮は嶽之坊と同一の場所にあるなど、古くから嶽之坊と蔵王大権現社とは、同体ともいえるほど深くつながっていた。
明治維新で神仏分離が行われると、吉野では「蔵王権現」を神号とし、従前の僧侶が神官となった。これに従って当地でも明治2年(1869年)7月に「蔵王大権現」を「蔵王大神」へと改号。さらに同年9月、「蔵王大神」とは「天水分神および国水分神」の2柱であるとの解釈から、社号を「水分神社(みくまりじんじゃ)」に改称した。なお、この時期に修験道の「蔵王大権現」を管理していた真言宗の嶽之坊は、神道の神社となった当社と合一したと見られる。明治8年(1875年)に「水分神社」は「刈田嶺神社」と称するようになった。