『詩人‐関根隆との邂逅(かいこう)』  No.5

『関根隆の影』井伏鱒二(「白い館」の帯の紹介‐詩文)

その影はむっくりと地から起きあがり

リフトのようにすいすいと岡をのぼる

云わずもがな生ある一個の影法師だ

腰に鍵束をぶらさげメドハギの杖をつき

傍目もふらず頂上の石造ロッカーを訪ねて行く

 

腰の鍵束は伊達に持っていないのだ

影法師は鍵を鳴らしてロッカーを開け

なかなる算木と筮竹を置き換えて

名著「易占・瞬間立卦秘法」を立ち読みする

かくして再びすいすいと岡をくだる

 

岡の麓に年旧りたる泉がある

影法師はメドハギの杖をその泉に立てる

泉の深さを計るためである

だが古人は云った

「泉の深さは計り知り得るが

その尽きせぬ水の量は計り知れないのだ」

影法師の嘆きはそこにある

 

 

『詩人‐関根隆との邂逅(かいこう)』  No.4

タイトルがとても印象的な詩集「午後四時のフェミニスト」は、この表現だけで、詩人‐関根隆のお姿が浮き出している! 「フェミニスト」=女性解放論者と言うよりも、女性をとても大切に扱うヒト——男性は多かれ少なかれ、マザー・コンプレックス!? 的‐紳士の、仕事を終える夕方まえの、身・心も疲れ、憂える-想いする時刻(とき)の詩歌かな。

その時、発表されていた関根隆氏ささんの詩についての感想を求められた時に、何んと言ったのか記憶にはありませんが、「……そのような感想は初めてだ、おもしろい」と言われて、「詩集 肉体」を頂いて帰った記憶があります。「詩集 肉体」だけは未だ見つかっていませんので、最近古本屋に注文いたしました。関根さんについての詩文をいつか書いてみたいと思います。

イタリア製の靴を履き、英国製のシャツとドイツ製の背広を着て、いつも質実・壮健な姿に見えましたが、「白い館」の詩集でご自身のことを——ぼくをモデルにした人物のように、しろまなこうす赤く、くろまなこがきらきらと粘っこくひかる、いつも不きげんそうな、それでいて、なんか、おびえているような、あまりぞっとしない四十男に映った……等と。

 

 

『詩人‐関根隆との邂逅(かいこう)』  No.3

関根隆さんとの出会いは、わたくしが大学を中途卒業(?)して、アルバイトを捜していた時にどのような縁でしたか……21歳のわたくしは、凸版印刷の校閲室(大手のA出版社)に来ていて、プロとしての校正の経験が殆ど無いに等しいのわたくしは、何故か氏に採用されて、しばらく勤めることになりました。がその間、お仕事上で大変ご迷惑をお掛けしていたのではなかったかと思われます……。

その時、発表されていた関根隆さんの詩についての感想を求められた時に、なんと言ったのか記憶にはありませんが、「……そのような感想は初めてだ、おもしろい」と言われて、「詩集 肉体」を頂いて帰った記憶があります。「詩集 肉体」だけは未だ見つかっていませんので、最近古本屋に注文いたしました。関根隆氏についての詩文をいつか書いてみたいと思います。

 

『詩人‐関根隆との邂逅(かいこう)』  No.2

この「ほれやすい葦」の詩を吉野弘氏は、パスカルの<考える葦>のパロディー詩として紹介している。

すぐにソワソワしだす男の辞書に

絶望というコトバはない

ほれやすい葦の上には

いつも希望の星ばかり

詩人-関根隆は1930年の東京生まれで、お住いは荻窪で何回かお伺いしたことがあり、近間の喫茶店でお茶をしてイチゴ・ケーキを食べたことがありました。小説家で詩人-井伏鱒二さんも荻窪住まいで、生前に氏とは親交があり〈白い館〉の詩集の帯の推薦文を書いて頂いていました。

『詩人‐関根隆との邂逅(かいこう)』  No.1

長い間、どこぞかに隠れていた(?)詩集が見つかりました。引っ越し先の荷物をほどいて並べて頂いた本棚に、並んだ本の上に隠れんぼするように、屈まないと見えない所に置いてありました。

詩集「午後4時のフェミニスト」1986年1月16日発行200部限定、第「60」冊目(赤い印字)に当たる、豪華な装丁本で定価は1万円でした。

「謹呈  関根隆」のボールぺのサインがあり、ご自身の文字に本人曰く、「ミミズが這ったような文字」〜一字・一字! タマシイこめてひときわ丁寧に、書いている姿が印象されています。お手紙も新聞の切り抜き——詩人‐吉野弘の「かすかなユーモアと控え目なエロス」の新聞-書評も入っていました。

〈新世界への道〉➝酷暑に真冬の詩を! No.5

『寒〜暑 烈しき町で』  <5>      中島 稔

いつ頃からか日本列島は雪、少なとなり、

夏は記録的‐酷暑が続き、「地球は温暖化に向かっている!」も、

今年‐正月明けに、大寒波に襲われ「非常事態宣言!」の、

ニューヨークや空港……西欧も「寒冷地化してしまってる?」

予報士泣かせの、ゲリラ台風・大竜巻・大洪水、

北の国では豪雪‐注意報など、「天候‐大異変!」

のニュースが、枚挙(まいきょ)に遑(いとま)なく放映されている。

〈新世界への道〉➝酷暑に真冬の詩を! No.4

『寒〜暑 烈しき町で』  <4>  中島 稔

一昨日まで、煤(すす)けていた空の顔(かんばせ)を、

洗い清めて、まっさらな朝陽が立ち昇ってゆく。

オナガ・カケス・シジュウガラ・スズメ……達、

除雪して、斑点(まだら)模様に溶け始めた庭で、

放(ほう)ったお米・残飯を、競って啄(ついば)んでいる。

裏庭の家陰(やかげ)には、屋根からずり落ちた雪も載(の)り、

7〜80㌢の積雪に、昭和30年頃にタイムスリップしたかのよう。

 

〈新世界への道〉➝酷暑に真冬の詩を! No.3

『寒〜暑 烈しき町で』  <3>  中島  稔

四月(うづき)には赤・白・ピンクに咲き染める、花言葉は、

永続・公平・「私の想い受け止めて!」の、

ハナミズキの街路樹を、すばしこく走り抜け、

冬枯れの木に、雪花(ゆきばな)咲かせてく。

一日25時間、ところ狭しと飛んで跳はねて、

雪橇(ゆきぞり)を駆り走り回っているる、雪の精‐

雪ん子たちを、誰も視ることができなくなったの?

雪ん子と遊ぶ子供たちは、何処に行ってしまった。

〈新世界への道〉➝酷暑に真冬の詩を! No.2

『寒〜暑 烈しき町で』 <2>  中島 稔

ヒトの記憶から、久しく説話(おはなし)からも、

消えていた〈雪ん子〉たちが、突然現われて、

小さなビルからビルへ、日がな工業団地の、

粘板岩(ねんばんがん)のスレート屋根の、大きな滑り台や、

山麓の別荘を移したかの、お伽噺(とぎばなし)ちっくな、

ログハウスや、枯れ芝になっていたその庭へ、

朝からメロンパン焼く、トンガリ帽子屋根の

ベーカリーに、雪橇(ゆきぞり)を駆(か)り、巡って行った。

〈新世界への道〉➝酷暑に真冬の詩を! No.1

『寒〜暑 烈しき町で』     中嶋 稔

年に一〜二度だけ、ほんの少し雪の降るる、

空(から)っ風の吹きまくる町で、今年ばかりは

ドシン・ドシン・ドシン……北極の白クマのような、

大雪が容赦無く、落ちてきた。

むかしは上毛(かみつけ)の平野側は、雪国でもないのに、

軒先きから、いく本もの太いツララが下がり、

雪室(かまくら)を作ることができる時節(とき)もあった。